ふく百話(70)
「ふくと我が人生 7」政治家への道
下関唐戸魚市場(株)の施設は下関市所有です。下関漁港市場は山口県です。県・市を開設者と呼びます。卸売市場法という法律が適用され会社はその施設を借りて営業しています。業界として衆議院議員は林義郎、県議会議員は農林水産委員長の田口三郎、市議会議員は議長の小浜俊昭の各氏を応援していました。
ある時、小野社長に県議会議員候補の話が持ち上がりました。下関市における幅広い活動が評価されてのことでしたが私は反対でした。議員の仕事よりふく業界を守り育てることが重要だと考えていました。後年、私が議員になって分かったことは経営者と議員の両立は難しいということです。議員活動をやればやるほど、会社の仕事は抜けます。反対に会社の仕事に一生懸命だと議員活動がおろそかになります。ふく業界は小野社長で保たれており、出馬の状況ではありませんでした。この話の前には、下関唐戸魚市場(株)の初代社長の浜坂末男氏が県議会議員をされたことがありました。今のように道路整備もおこなわれておらず、県議会に通ううちに体を壊し、1期で辞職された歴史があります。
平成11年、大家である下関市へ業界からパイプ役をつくろうということで、私が市議会議員候補となりました。話が持ち上がって1年間、素人集団が手探りで取り組みました。市議会議員は地域の代表と職域の代表、政党の代表などがあります。私は彦島地域と唐戸地域、唐戸市場(唐戸、南風泊)の職域代表となり、53名立候補、定数36名の中で4322票、断トツの第1位となりました。
後援会長は水津山口県漁連会長。49歳、政治家としては遅いスタートです。
スローガンは「ふくで、魚で下関を元気に」。他の議員から中尾議員がいくら言っても「ふく」で町おこしは難しいと、批判する議員もかなりいました。
1位の責任を感じ、毎週の街頭報告、議員通信で市政の現状をお伝えしました。
会派名は「新風会」。わずか4人でしたが議会に新風、波乱を起こしました。
4年後、その活動が認められ市長候補へと誘いもありましたが県議会議員へ立候補、候補者11名、定数9名中、7位当選しました。9597票。
公約は総合市場の建設です。周辺人口を含め30万人の商圏では何でも揃う総合市場が成り立ちます。魚は唐戸市場、野菜は勝山、花は椋野では買い出しの効率が悪いのです。ふくは南風泊市場、魚は唐戸市場、県管理の下関漁港。それぞれの歴史、思惑もからみ実現は困難でした。現在は大型スーパーが市内に点在、小売業は衰退しました。下関市における総合市場は夢と終わりました。
下関ふくで県議会に旋風をと議会に乗り込みました。後の宇部市長、久保田后子、後の周南市長、木村健一郎、下関の中尾友昭の3人で県議会始まって以来の無政党会派「新政クラブ」を立ち上げあらたな風を吹き込みました。
私の所属は農林水産委員会、山口県は水産よりも農業の規模がかなり大きいことがわかりました。それは下関も同じです。下関ふくの自慢は大いにしました。会派懇親会、県職員との勉強会、大学同窓県議の会などで私が腕を振るいました。県の水産物第一位は断トツ「ふく」だと自慢しましたら、他市の議員から、ハモ、アマダイ、アユ、シロウオ、ツガニ、タコ等、地元の自慢が沢山ありました。今から思えば結構楽しかった県議生活でした。議会の親分は島田明議長。よく可愛がっていただきました。柳居俊学現議長は年が近いこともありよく付き合いました。忘れられない友人は畑原基成元議長。県議の青年会議所OB会があり毎議会ごと深夜まで畑原基成、木村健一郎氏と湯田温泉を飲み歩きました。
2年後の平成17年、下関市は1市4町が合併し市長選挙が行われました。
多くの応援者に背中を押され立候補しましたが2500票差で落選。55歳、全てを失った心境でした。多額の借金、大きなストレスによる胃の手術、税理士実務不十分、生活の不安、将来構想描けず、妻に過大な負担をかけた。何より自分が情けない。自分を責め続け、うつ病状態でした。唐戸魚市場に戻りたい、議員にもどりたい。僅差で負けたが負けは負け。無謀ともいえる挑戦に敗れたのです。
多くの人は去り、応援者はまだまだ頑張れと善意で励ましてくれるが、うつ状態の人間には励ましのことばが胸に突き刺さるのです。精神科医の友人に助けられました。落ち込むときは急激ですが完全回復には2年かかりました。
下関唐戸魚市場(株)の松村社長のおかげで、系列水産加工会社の顧問就任。
今まで、ふくと言えばトラフグだと信じていた自分が中国人実習生と中国産冷凍サバフグを加工。仕事が情けなく、再び自分に自信を失いました。
午前4時起床、税理士事務所に5時出社、8時に水産加工会社。元気朝礼の進行、午前中仕事。昼から再び税理士事務所。妻の手作り弁当が砂を噛むような味がしました。夕方再び水産加工会社へ。深夜11時まで加工作業が続きました。後がないとはこのことでしょう。命がけで取り組みました。
その水産会社の経営は連続赤字で社員は自信を失っていました。しかし「置かれた場所で咲きなさい」という言葉に出会い、現状を受け入れることから再出発が始まったのです。皆で努力して黒字化を実現、私は自信を取り戻しました。
それから4年後、平成21年再びチャンスが訪れました。その頃読んだ本に、私のような状況の時に自ら動かなくても人々が探し出し、その機会を与えてくれるという話があり、それを「応機」というのです。まさに応機が訪れたのです。
平成21年、春。6万票獲得。他の候補2名分の票を超え、下関市長に就任しました。就任したと言うより、市長になれるはずのない人間が、皆さんの力で市長に就任させて頂いたのです。苦節の4年間で鍛えられ、その後の市長を励まし支えてくれました。人生「塞翁が馬」とはこのことだと自覚した時でした。≈