ふく百話(6)
「ふく養殖業界の風雲児」
日本一のふく養殖に大きな影響を与えた男の物語です。名前は保直次、大正5年鹿児島県徳之島生まれ。平成24年逝去、享年96歳。保氏は鹿児島城山観光ホテルのオーナーでした。お会いしたのはわずか2回ですが、その強烈な印象で大きな影響を受けました。毎月社内報が送付され社長談話があり愛読、ファイルしました。先見性と独創的経営で城山観光グループを一代で1000億円企業に成長させた人物です。戦後、裸一環で上海から引き揚げて来ましたが、重い病気に罹っており引揚げ船から担架でした。その夜、医師から奥さんに話があり、ご主人は今晩か明日には亡くなりますから葬式の準備をされた方が良いですよと言われたそうです。この話は本人が講演でよく話されていました。ところが奇跡的に回復したのです。それから波乱万丈の人生が始まりました。昭和23年鹿児島の繁華街、天文館でアイスキャンディーの販売。その後は高級クラブを経営、パチンコ業界に進出。経済人として頭角を現しホテル業にも進出。目標は鹿児島県人のシンボル、城山です。この山は西郷隆盛が自決した場所でもあり大きな反対があったそうです。それならば天皇陛下がお泊りになるようなホテルを山頂に建設するということで現在の形になったのです。昭和36年城山観光ホテル開業、その後は博多城山ホテル、中洲川端に「網元」という城山ふくを扱う店をオープン。福岡県津屋崎の半島を開発し「彫刻の森・恋の浦」として一大レジャーランドを建設。この場所は保社長が鹿児島から東京への飛行機中で目を付けた場所。新福岡空港がこの沖合に建設されると考えていたのです。ゴルフ場経営、観光功労で大臣表彰。クラブ、パチンコ、ホテルが経営にのり次に考えたのが水産県鹿児島を盛り上げることです。目標は高値の花の養殖ふくでした。昭和55年頃の話です。城山観光ホテルが奄美大島でふく養殖を始めたという情報を入手した松村元社長と訪問しました。秘書からは社長はふくが大好きです。現在養殖中の物は社長のおかずです。そして社長は忙しいので会えません。粘ってなんとか短い時間の面談が叶いました。保社長からはふく養殖の話はほどほどに、君たちの夢は何ですかという話があったことをよく覚えています。養殖は水産事業部が担当でそれぞれの部署に猛者の責任者がおられ、保社長の片腕となって仕事をされていました。城山の養殖ふくは規模が大きく、南風泊市場から全国の市場へ出荷されました。大型の上に白子も多く、我が国のふく養殖に一大革命を起こしたのです。温かい海域で大きく成長させるため、身の質が少し落ちるのと低水温に弱い難点がありました。昭和58年1月22日、奄美大島から1、3キロの大型ふく14、000匹を満載して南風泊に到着した大型活魚運搬船のふくが関門海峡9度の冷水温のため数日で全滅しました。奄美大島の水温21度。
活魚なら1億4千万円です。その事故を受けて社長の小野英雄はいち早く動きました。松村氏とともに即日鹿児島の保社長を訪問、お見舞金を渡しました。
保社長からは冷水温は魚市場の責任ではない。そしてよくきてくれたと感謝の言葉があったそうです。そのようなこともあり、保社長と小野社長の親交が深まりました。昭和63年の南風泊市場活魚センター竣工には保社長が後継ぎの子息とともに来関、主賓として祝辞を述べられました。式典の司会、その後の水槽設備等、保社長に施設を案内したのは私です。幾多の困難を超えて発展してきた城山観光ホテルグループですが投資の多くを借入金で賄っていたため平成17年には負債総額が640億円となっていました。そして平成20年遂に倒産したのです。市長に就任して城山観光ホテルに宿泊の機会がありました。経営者は交代していましたが、いきさつを話し関係者がいないか尋ねました。職員に保氏の孫が働いておられ話しました。いろいろと過去の話をしましたら昔のことですからと寂しそうでした。そして座右の銘「夢を見、夢を追い、夢を喰う」を話すと、久しぶりにその言葉を聞きましたと喜ばれました。
城山観光ホテルは野村證券グループによって再建され最近、過去最高の利益を計上したそうです。新しい経営者の手腕もあるでしょうが城山という錦江湾、桜島を望む東洋のナポリに夢をかけた保直次氏の偉業が生かされたのです。
今週は2枚に収まりませんでした。