ふく百話(10)
「ふくと我が人生 1」ふく百話を書き始めて
「ふく百話」が10回目となりました。市長時代、市長通信なるものを職員へ向けて毎日送信しました。「今日のことば」と「市長の日々の出来事」を在任期間中、合計2133回送信しました。このたび再びふくの業界とご縁ができたので様々なことを記録と思い「ふく百話」になった次第です。いくつかの顧問先へも送信しています。読んでいただいて光栄です。
「ふく百話」作成にあたり一番驚いたのはインターネットの情報量です。いろいろなことがわかる凄い量です。ただし「ふく」の情報が全て正しいわけではありません。自分でもふく関係の書籍10冊を参考にしていますので、自らの知識とともに活用しています。そして専門的にならず自分の言葉でまとめています。
下関商業高校卒業の18歳から現在に至るまで53年間、「下関ふく」は常に間近で私を支え、応援してくれました。このたびの「ふく百話」もその一つです。また輪が広がり楽しみです。読者からの感想ではいままで知らなかった話が多い。これほど話題が多い「さかな」とは知らなかった等などです。
私がふくと縁ができたのは高校を卒業して下関唐戸魚市場(株)に入社してからです。それまでは水産物の一つとして「ふく」という名前を知っているくらいで食べたことはないし、下関とふくの歴史を知る由もありません。
ただ父親が下関漁港の仲卸人で当時全盛期だった以西底引きの魚を唐戸市場の棚(鮮魚売り場)で魚屋さんに販売する仕事でした。時々「ふくのなかお」と間違えて鮮魚仲卸業の我が家に電話してこられました。母親が自分のところは「ふくのなかお」ではありませんと断りをしていたのを覚えています。
「ふくのなかお」さんがどのような人か知りませんでしたが、下関唐戸魚市場(株)に入社して、元社長小野英雄の恩人、初代仲卸人組合長の中尾勇さんに出会い、下関ふくの伝道者として影響を受けました。またその子息の隆之さんには市議会、県議会、市長と長い間選対本部長を務めていただきました。
父親の仕事の話ですが、戦後しばらくは大変景気がよく、母親の話では下関ボートレース、かけマージャン、別府温泉に狂わなければ家の2、3軒も建ったのにとよく言っていました。市長に就任してボートレース事業立て直しの時、我が家を没落させた下関ボートに恨みがありました。しかし、市財政の健全化のため経営改善に取り組んだのです。幸い人に恵まれ、時期に恵まれ、市役所職員の総合力で売上高200億円の赤字のボートレース下関が今や1200億円を超える大企業に成長しました。もしあの時、私が親の仇と反対していたら、こんにちの隆盛はなかったと思います。今後10回の区切りごとに「ふくと我が人生」を掲載させていただきます。よろしくお願いいたします。