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ふく百話(20)

「ふくと我が人生 2」落ちこぼれの新入社員

「ふく百話」が20回となりました。継続は読者皆様のおかげです。ありがとうございます。中尾友昭のオリジナルなものを目指しています。今回は下関唐戸魚市場(株)入社前後の話です。

1968年、昭和43年3月、下関商業高校を卒業しました。大学進学希望でしたが学力不足でした。政治家になってから冗談半分に私がストレートに大学に行けなかったことを取り上げて、2つのうち1つあれば大学へ行けます。一つは自分の学力が高いこと、もう一つは家計に余裕があることです。実際には苦学しながら進学した同級生もいますので、私の場合は意志薄弱の状況でした。進学できず、就職もできない。就職できない大きな原因は経理ができない。下商卒業ならそろばんの3級は必須だと聞いているというのが世間の常識でした。それが私の場合は必須のそろばん(計算実務といいます)は欠単位、通知表は1なのです。午後のそろばんの授業は将来に希望が持てずに寝て受けましたので足し算・引き算はできても掛け算・割り算ができません。テストは筆算で計算していたのでいつもタイムオーバーでした。数社の面接を受けるも全て不採用です。

親も困って、下関唐戸魚市場(株)で営業部長をしていた叔父の小野英雄に頼んだのです。ちょうど入荷量が増加して「ふく」の荷役作業員が不足していたので、そのまま無試験で採用されました。土谷社長から小野に対して甥を入社させるのは良いが君が仕事がしにくくなり困りはしないかと言われたそうです。それでも小野英雄は私を入社させてくれました。午前1時からの荷役作業が仕事の原点です。入社してからの小野はまさに鬼軍曹でした。徹底的にしごかれました。殴られた記憶は数回しかありませんが、とにかくスパルタ教育で鍛えられました。私は大学へ行けなかったが小野学校へ入学したと思いました。厳しい環境の中で高校時代の劣等感を変える気持ちでなにくそと取り組みました。それで心と体が鍛えられました。高校時代挫折した柔道を再開し、初段の試合では5人すべてに1本勝ちしました。荷役仕事はふく船の箱物の積み降ろしと活魚の選別です。この仕事はきつい作業で下を向いて開始したら、そのまま数時間、同じ作業が続きました。ほとんどの職員は腰を痛めました。私はラジオ体操、腕立、腹筋等をしながら痛みを乗り越えました。ふくの荷役作業が終われば、ブリの水揚げで、北島三郎の歌に出てくるゴムの合羽(まだビニール製はありません)を着て、全身血まみれになりながらブリを包丁で締めました。ふくとの出会いは華やかなものではなく、きつく苦しい仕事の連続でした。深夜の仕事で

友達もおらず、まして彼女は夢のまた夢でした。寂しい青春時代でした。

ふく選別後の汗とふくの粘液と塩水で濡れた作業服がドラム缶ストーブで熱せられ強烈な匂いがしました。このような経験が私の体に染みついて、今は「ふく」に対する愛着となっているのです。天然ふく100%、最高級品は内海物とらふく(通称 シロ、尻びれが白い)、二番手は東シナ海の「クロ」(標準和名 カラス)です。それに加えて年明けのナメラ「標準和名 マフグ」、産卵期の春に向けて関門海峡や玄界灘、日本海のトラフグでした。冷凍技術もあまり良くなく、ふく本来のシーズンである秋の彼岸から春の彼岸迄の季節の魚でした。「ふく」だけに限らず魚はすべて天然物の時代ですので時化が続けば相場は高騰、凪が続けば相場は下落です。年末は特にその傾向が強く、今のように正月からスーパーは開いていませんので年末商戦は大変でした。半面商売人には面白い時代でもありました。入荷が少ないとき、先輩たちはボーリング、ボートレース、かけマージャン、飲み会等で忙しかったです。私はだいたい留守番でしたが、暇なときには朝から酒を飲み、気持ちがよくなって唐戸商店街のパチンコ屋に行きました。朝から晩まで12時間くらいしたこともあります。勝負には弱いのでパチンコに勝ったことは一度もありません。いつも当方が終了でした。ふく船の船長や船員が唐戸や豊前田に繰り出していましたのでお供したこともあります。景気の良い船長と春帆楼や川棚温泉まで宴会で行ったこともあります。ふく船に乗ったら数年で家が建つと言われた時代でした。