ふく百話(57)
「吉田松陰とふく」
松下村塾は天保13年(1842)ごろ、松陰の叔父、玉木文之進が自宅の一隅ではじめたもので塾が始まると吉田松陰も通っていました。1848年に玉木が多忙のため塾を閉じました。吉田松陰が講義を始めた安政3年(1856)頃は叔父の久保五郎左衛門が松下村塾を主宰していました。�眇�晋作の手紙では安政4年11月頃、現在の松下村塾に移り松陰主宰の「松下村塾」がスタートしたようです。著名な門下生には久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一、伊藤博文、山県有朋、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、野村靖、飯田俊徳、渡辺蒿蔵(天野清三郎)、松浦松洞、増野徳民、有吉熊次郎などがおり、総計で約90名余りが松陰の教えを受けたのです。
8畳の講義室と10畳の控えの間で日本の将来を語る熱い議論が交わされ、幕末から明治維新に活躍した多くの人物が育ちました。
逸話によれば、フグの入った桶を見ながら、松陰は「フグはうまい。じゃが毒がある」、「フグ食を禁じている藩も多い。これは道理にかなった禁令だろうか」などと塾生と議論をしたそうです。塾生がフグ鍋を食べた時も松陰は食しませんでした。
松陰は、この世で一番恐れていることは「何事も成さないこと、そして成そうとしないこと。志の果てに迎える死以外で、死にたくない。断じて」と言い、「そのためには目先の誘惑やつまらない毒に足をすくわれたくない、だからフグは食べない」と弟子に語らせています。
実際、松陰の文献に「河豚食わざるの記(説)」というのがあります。
「吉田松陰全集」第3巻「不食河豚説」(河豚を食わざるの説)です。
現代文に要約すると松陰はフグには毒があると言われるが好む者は多い。自分がこれを食べないのは、死は誰にでも訪れるものであり、死を怖れるわけではなく、名を失うことを怖れている。いやしくもたかがフグの毒で死ぬことは不名誉で武士たる者のするべきことではない」。
フグを食べてはいけないという決まりがある中で、フグ中毒で死んだという「汚名を恥じる」と「名を恐れていた」と言われています。またフグはアヘンと一緒で食べてはいけないとなっているのに止められない、そういう食べ物だと言ってその態度をもって松陰が周りに忠告したかったのではということです。
一切世俗のものに関心を抱かず、読書のみを好んだ松陰がわずかに柿と餅が好物であったと伝えられています。

