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ふく百話(60)

「ふくと我が人生 6」下関ふくとともに30年

昭和50年(1975)26歳で東京から帰関しました。それからの30年名実ともに南風泊市場で下関ふく一色の生活でした。ふくのおかげで結婚し、家を建て、子供を育て、様々な研修・勉強ができ社会貢献できました。小野英雄の下で力一杯仕事ができました。企業人として人生で一番充実していた時期でした。帰関時の市長は井川市長、それから4年後、泉田市長となりました。後年の話ですが亀田市長とともに3人の元市長にはそれぞれ大変お世話になりました。市場は市が所有、市長が大家なのです。

昭和55年、下関唐戸魚市場(株)は創立30周年を迎えました。業界に勢いがあった時代で小野社長のアイデアで「ふく有情」という記念誌を発刊しました。

題字は小野英雄です。様々な話が登場します。作者は郷土史家の富田義弘さん。発刊のことばで小野英雄はこの「ふく有情」に続き10年後、20年後に続編が出版されるならば、ふくを取り巻く状況はどのように変わっているだろうかという記述があります。その文章を改めて読んで「ふく有情」から40年が経過したが、この「ふく百話」は「続ふく有情」だと思うようになりました。

昭和57年、山口県ふぐ条例制定、昭和61年、会社の電算化に伴い担当者となりセリ人を卒業、総務部次長となる。その後も深夜の勤務は継続。平成2年2月、ふくのセリ値が1箱15匹で88万円、1キロ4万9千円の最高値記録。

一人当たりの値段はふく料理だけで15万円、それに白子料理、ヒレ酒、サービス料等加算すれば一人20万円のふく料理になります。当時は10万円のふく料理は珍しくありませんでした。バブル全盛期、業界は最高の時代でした。我々が頂くボーナスは夏、冬、3月末の3回あり、3月末が最高でした。仕事は厳しかったですが小野社長を中心に少数精鋭で頑張りました。私も毎日12時間以上働きました。創立40周年、松村久さんとともに取締役就任。

小野社長も社会活動が増えて、全国ふく連盟副会長、商工会議所副会頭、法人会会長、ローターリークラブ会長、ふくの社長として数々の講演、趣味として日本舞踊坂東流名取、書道は毎日書道展毎年入選、観世流謡曲玄人レベル、ゴルフ等、大活躍でした。豊前田では夜の市長と自他ともに認めていました。

東京時代から勉強を続けていた税理士試験は4科目に合格しました。ふくはえ縄船入港までの時間が最高の勉強時間でした。またふく業界は夏場は暇です。毎年8月の試験迄やる気になれば時間は沢山ありました。この試験は落とす試験なのでハングリー精神が大切です。12月に合格発表があるのですが4科目に合格した頃から南風泊市場のセリ場で小野社長に税理士試験合格を伝えることが夢で、時々そのシーンを思い浮かべながら涙を流したこともあります。

残念ながら努力不足で夢は小野生存中には実現しませんでした。税理士登録は平成14年、53歳です。25歳で簿記論に合格し、それから28年もかかりました。会社員、政治家への道もあり、誰でもできない体験をさせて頂きました。すごい体験と引き換えに、税理士実務は全うできませんでした。

元気一杯の小野社長でしたが長年の激務で過労が重なり、さらに過度の飲酒で肝臓がんとなり平成5年6月12日、逝去しました。享年68歳。まさに巨星落つの激震でした。偉大なリーダーを失い業界は困りました。私は44歳、大きな目標を失いました。全ての活動は叔父である小野社長のため、社長が見ているから頑張れると思っていたのが、突然その目標がなくなったのです。

それでも会社は生き物です。一時も休むことはできません。後継社長を誰にするのか、私を含め3人が候補者でした。結局、業界の良識で社長は年長者の山田好章氏、専務が松村久氏、私は常務取締役となりました。小野亡き後の私の重要な仕事は小野の構想を実現することです。新唐戸市場の建設、カモンワーフの設立、新水族館をふく水族館へ、南風泊市場へ本社移転、市民向けふく料理教室、事業年度開始をふくシーズンへ変更等、小野の写真を机に置いて、叔父さん見守って下さい。やりますよと己に誓いながら、関係者の理解を得て職員と力を合わせそれぞれ実現させました。このストーリーは私の市長時代に似ています。市民の応援、議会の了解、市役所職員と力を合わせ数々の仕事が実現できました。