ふく百話(59)
「ふく解禁134年」
今年は初代内閣総理大臣、伊藤博文(1841〜1909)が下関でふく食を解禁して134年になります。時は明治20年(1887)、総理大臣の伊藤博文が春帆楼に宿泊した折、あいにくの時化続きで魚がなかったそうです。
さかなの町、下関(当時は馬関)で魚がないとは情けないと言われたそうで、女将がお手打ち覚悟でご禁制のふく料理を提供したところ、その美味しさに大変感激し、適切な調理をすれば大丈夫ということで山口県令(知事)にふく食解禁を働きかけ翌明治21年(1888)下関の春帆楼がふく料理公許第一号となりました、と観光的にはこれで受けていますが逸話があります。幕末に下関で活躍した伊藤博文はふくの美味しさをよく知っていたとのことです。
ふく食の歴史は長く、縄文時代から食されていて貝塚から多くのフグの骨が出土しています。フグ毒がどこにあるのかわからず、中毒死もあったようです。安土桃山時代、豊臣秀吉が文禄慶長の役(1598)の際、下関でふくを食べて死亡する兵隊が続出したことで「河豚食禁止令」を出しました。江戸時代、藩によっては武士にふく食を禁止し、厳しい掟もありました。
そのような中でも下関では庶民が日常、ふくを食べていたようで、その光景は下関市を訪れた旅人を驚かせたようです。明治になってもこの規制が違警罪として残り、禁止状態が全国的に続いていたのです。
下関ふくについては大恩人の伊藤博文ですが、その生涯は波乱万丈でした。
伝記によれば伊藤は1841年、現在の光市に百姓の長男として生まれました。破産した父親が萩市に赴任したことで萩に移住しました。ここでも家が貧しかったため苦労の多い幼少期でした。松下村塾に入門しましたが身分が低いため塾の敷居をまたぐことが許されず、戸外で立ったまま聴講したそうです。
苦労の多かった伊藤ですが吉田松陰に才能を見出され京都や江戸へ滞在の機会がありました。1863年、イギリス渡航しました。いわゆる長州五傑です。航海中、現地でも猛威勉強して英語をはじめ海外の知識を吸収したのです。
イギリス留学中に見聞を広め、イギリスとの圧倒的な国力の差を目の当たりにして開国論に転じました。
元治元年(1864)4国連合艦隊による下関占領、戦後処理には全権交渉団長、�眇�晋作の通訳として活躍しました。伊藤は正確には明治維新後に博文と改名しました。それまでは利助、俊介などです。長州閥の有力者として英語に堪能なことが買われ、木戸孝允らの後ろ盾もあり政府の要職を歴任しました。明治18年(1885)、伊藤博文は遂に初代内閣総理大臣に就任しました。以後5代、7代、10代と4次にわたり総理大臣として内閣を率いたのです。明治42年(1909)、極東問題で出向いた満州ハルピン駅で韓国の革命家に暗殺されました。享年69歳。壮絶な人生でした。
さて、話を下関春帆楼へ戻します。春帆楼ホームページによると春帆楼という屋号は「春うららかな眼下の海にたくさんの帆船が浮かんでいる様」から伊藤博文が名付けました。伊藤博文は春帆楼の上得意客だったのです。
春帆楼の歴史は江戸時代まで遡ります。江戸時代の末、中津(大分)の御殿医だった蘭医・藤野玄洋は自由な研究をするため本陣、伊藤家の招きで阿弥陀寺に医院を開きました。当時の伊藤家の当主・伊藤久三は坂本龍馬を物心両面で支援していました。妻・おりょうさんとの新居は伊藤家の一角でした。
春帆楼は藤野玄洋が没後、伊藤博文の勧めで藤野の妻が医院を改装、割烹旅館を開いたことが始まりです。春帆楼は明治28年(1895)の日清講和条約の会場となりました。下関条約という地名がついています。建物は昭和20年の空襲で全焼しましたが戦後まもなく復興。関門国道トンネル開通と山口国体の際には昭和天皇・皇后陛下がお泊りになりました。その部屋は、帝の間と呼ばれ春帆楼最上階です。ふくと伊藤博文と春帆楼。下関ふくの大きな歴史の一場面です。現代なら安全で美味しい「下関ふく」を堪能できます。
帝の間の上座に吉田松陰、海峡を背にして�眇�晋作、引き受けは総理大臣、伊藤博文。ふく刺しを囲み三人でどのような話題に話が弾むのでしょうか。

