ふく百話(76)
「松生丸事件」
1975年9月2日、日本の漁船、松生丸が黄海北部の公海で操業中に北朝鮮の警備艇2隻から銃撃を受け49歳と37歳の甲板員2名が射殺されるという事件が起きました。
松生丸は佐賀県呼子漁協所属、50トンで乗組員は9名でした。
事件の概要は9月2日の午前10時ごろ、操業中の松生丸に北朝鮮の警備艇2隻が接近、手旗信号を送ってきましたが意味が分からずにいると、いきなり発砲してきたのです。その後、松生丸は北朝鮮の警備船4隻により拿捕されました。
日本政府は日本赤十字を通じて松生丸の乗務員、遺体の早期返還交渉を行いました。その結果、9月14日に負傷者2名を除く乗務員が松生丸とともに佐賀県呼子港に帰国できました。
遺体の引き取りは当初、海上保安庁巡視船の予定でしたが機関銃が装備されていることから認められず民間船で行われました。
事件のあった9月2日には偶然にも日本社会党副委員長だった山本正弘氏が社会党機関紙局長として訪朝していました。北朝鮮側と拿捕された乗務員の帰還について激しい議論があったそうです。
当初は強い拒否反応があった北朝鮮ですが交渉決裂、代表団が日本に帰国準備で荷物をまとめている最中に一転して「遺体と生存者全員の帰国」を約束したのです。また一人当たり2万ドルの弔慰金が支払われました。
この事件を受けて小野英雄は社会党代議士を窓口に、ふく延縄関係者とともに中国経由で北朝鮮に行きました。当時私はまだ東京におり交渉の内容について詳しくありませんが下関唐戸魚市場(株)の元社長松村久氏の話によれば、ふくが沢山漁獲された東シナ海、黄海へ多くの船が出漁しており韓国、北朝鮮近くまで操業していたそうです。日本のふく延縄船は装備も良く密航船と勘違いされて銃撃されたと思う、そして戦争になるのではと思ったそうです。
佐賀県呼子港の船ということで勢力が弱かったのです。その後、各県で協議がもたれ佐賀、長崎、大分、福岡、山口の各県が参加した西日本ふく延縄組合が発足したのです。
余談ですが私の母親は小野英雄の妹なので叔父が北朝鮮から帰国した時にお土産を頂きました。土産は水産物の缶詰でした。小野の話では他に土産になるようなものはなかったそうです。帰国して小野はしばらく警察の尾行を受けました。「俺は北朝鮮のスパイに間違えられている」と述べていました。
先週のニュースで日韓共同の「ふく稚魚放流」が数年ぶりに南風泊市場にて行われました。海はつながっています。今後も安全操業を祈ります。