ふく百話(35)
「ふく群図」
下関海峡メッセ10階、国際会議場入り口の左側に大きな「ふく群図」が掲げられています。実寸より少し大きめのトラフグが45匹も遊泳する壮大な絵柄です。平成9年7月に開館1周年を記念して設置されました。製作者は下関在住の画家、三輪亨良(たかよし)さん。贈呈者は下関ふく連盟平尾光司会長です。
私は小野英雄の関係で三輪さんとは親しくさせて頂きました。
後述の「ふくと下関」執筆時には失礼を顧みず「ふくと下関」について私が思うところの長いお手紙を出しました。三輪さんから丁寧な返信を頂くとともに、著書の中で手紙のことを紹介していただき恐縮しています。
この構想は平成7年に始まりました。平尾会長から三輪さんに海峡メッセが完成するが建物のどこにも下関の顔である「ふく」がない。「下関のためにふくの大画面を描いてみませんか」という提案が始まりでした。専門業者に採寸していただき縦2メートル、横9メートルの大きさが決まったのです。三輪さんにとって今回のような大作は生まれて初めてでした。下関のためと平尾会長の提案を受け入れたものの、その後、様々な課題に立ち向かいご苦労があったようです。
三輪さんにとって「ふく群図は私のライフワーク」と言わしめています。
そしてこのような大作を描くのは精神的、肉体的に決して楽ではなかった。
「私はこの絵を描き終えたら本当に死んでもいいと思いながら作品の完成に向かって息も絶え絶えに取り組んだ。いまは素晴らしい仕事に恵まれたことを心から感謝している」と後日語られています。
絵の具は特性の「フランス製オイル・パステル」です。パリに滞在し毎日探し回ったのです。最終日、ようやくモンマルトルの小さな画材店で目的の絵の具を見つけました。注文量が多いので後日の輸送となりました。また作画のためには手すき和紙が必要でした。福井県五箇の和紙専門業者に注文したところ、そのような大きな紙を1枚で漉くのは不可能と断られたのです。またメッセに搬入するには3分割以上にする必要がありました。紙の手すきは冬の時期にしかできないとのことで下関の業者が現地に調査に行き3分割が決定、翌年の冬に縦2メートル、横3メートルの厚手の和紙3枚が届きました。三輪さんはそれまで下書きはしていたもののあまりの大きさに数日は全く手がつかず長時間眺めて過ごしたということです。書き始めは8Bの鉛筆で軽く1匹ずつデッサンを行い、全体のアウトラインを描いてから再度一匹ずつ複雑な工程を経てやっと彩色に取り掛かります。まず鉛筆で描いた線を練りゴムで見えるか見えないかの薄い線で残します。1年前、パリから送られてきたオイル・パステルの漆黒を真っ白い画面に置くには相当の勇気が必要だったそうです。それは一度置いた色はあとで、どんなことをしても消せないからです。慎重に大胆に色を重ね、その上から三輪さん独特の指先で紙に刷り込む技法を駆使したのです。1匹。2匹、3匹と描き進むうちに指先が腫れ右手はすべて腫れあがりました。冷水に指を漬けてしばらく休み、同じように左指も使いました。脚立に登ったり降りたり、立ったり、座ったり、横になったりして描いたそうです。1枚完成するのに1か月を要し、3枚全部が完成した時には精魂が尽き果て寝込んでしまうのではと思うくらい疲労困憊したということです。メッセへの搬入も大変で専門業者が30人を手配し、大型クレーンでメッセ8階のバルコニーへまずつり上げ、その後はらせん階段を人力で10階の国際会議場まで運び込みました。
作品設置がまた一苦労で17人が息合わせ絵を持ち上げました。
三輪さんはメッセへの搬入が終わった翌日、体調不良で病院にいったところ医者から栄養失調と診断されました。上記の内容は三輪さんが執筆された「ふくと下関」の「ふく群図」始末記より私なりにまとめたものです。なお、同じ描き方をした少し小ぶりの作品が南風泊水産加工団地のふく料理体験施設「ふく楽舎」二階のホール入り口に設置してあります。この施設は平尾光司さんがふくの普及を目指し建設されました。両作品とも機会があればぜひご覧ください。
下関ふくは多くの先人の尽力で今があると改めて感謝です。